親の教育と躾に思う

 秋葉原無差別殺人事件で、加藤智大容疑者が携帯に「親が憎い」とメールを入れていたと報じられた。
そこで思うに、親の子供対する教育、躾がいかに大事であるかを思わせるのである。
 過去にも親を憎んで重大犯罪を犯した者が多数いたが、今日はそれについて思うことを述べたい。
 まず、親が子供に対して、将来の理想像を描き、より以上の期待をすることである。
 特に自分が希望していた生活が得られなかった親は、良い生活をして貰いたい一心から子供に期待を掛けすぎるきらいがある。
 期待を掛けられた子供は災難である。能力以上のことを親から押し付けられ、塾通い、デレビの制限、ゲームの禁止等々子供を縛りつけてしまう。
 成績表を持って帰ると成績が上がっていないといって、また無理強いをする。子供はますます窮屈になってしまう。全てそうであるとは思わないが、その中で一握りの子供が、変な考えをもつようになって凶悪な犯罪を起こすことになってくる。
 親が冷静に判断して己の成績が平均3であったと仮定すると、我が子が平均3の成績表を持って帰ったとする。
 親並の成績であるにもかかわらず「なんだこの成績は」と叱らずに、よく頑張ったといってやればよいのだ。
 そして、平均4の成績表を持って帰れば「良くやった」と誉めてやればいいのだ。親の自分より成績が良いのだから。 
自分の子供が自分並の成績であれば、それは立派ということがいえる。より以上の成績を思うから叱るのである。
 トンビがタカを産むことはめったにあるものではない。トンビの子はトンビなのである。
 それをタカにしようとするから、子供に負担をかけるのである。
 そのように育てられた子供たちは、反感を持つものも居るだろうし、そうだと思う子供も居るだろう、そこを見分けるのも親の義務なのである。
 子供は伸び伸びと育て、自分並の成績を残せばもうけものと思えば良いのだ。
 さらに、周囲に対する見栄だけで子供を育てる呆れた親もいることは否定できない。こうなると子供にとっては耐え難い気持ちとなって、悪い方向に向うようになる。
 躾も小さいときに「事の善悪」をしっかりと教えていないと社会からはじき出される子供になってしまう恐れがある。
 小学校に入学し、他の児童と一緒に学び遊ぶという中で、何をしたら仲間に嫌われるか?受け入れられるか?を体験する。
 そういった時に、馬鹿親が遠足の時に「うちの子は足が遅いから、うちの子にペースにあわせろ」とか「うちの子はピアノが上手いのに、なぜうちの子に弾かせないのか」と学校に怒鳴り込むのもいる。
 また、子供同士の喧嘩にすぐ出てきて、相手の子供を怒る馬鹿親もいる。
 小学校時代の子供の喧嘩は、ある程度やらしておけば良いのだ。素手で殴りあう子供の喧嘩は大したことではないのである。
 相手が泣いたら決着はつくのである。逆に物をもっての喧嘩は早く止めて叱ればよいのだ。
 喧嘩をすることによって何をしたら受け入れられるか嫌われるかを学ぶのである。
 それを親が出てきて相手を怒ると、うちの親はなんでもしてくれると、間違ったメッセージを子供に植え付けることになって将来に禍根を残す結果が往々にしてある。
 最近の親は、戦後教育の弊害(自由自由という教え)から中途半端な者が多く、その子供にも間違った躾をすることがある。(親その者は、間違っていると思っていないから始末に負えない)
 子作りは知っているが育て方をまったく知らない親が余りも多すぎるのである。
 学校に行くようになると、すべて学校任せにし、我が子が何か失敗すると学校の責任だと騒ぐ呆れた親もいる。
 自分達は、高級外車に乗って遊びまわっていながら、給食費は払えないとか好き勝手に言う親もいる。
 これらも戦後教育で育てられた弊害である。
 教師の中には、戦後教育の中で自由を教育されていることで、自分の間違った思想を教える馬鹿教師も居ることも事実であるが、「人を愛し、国を愛する」教育を徹底しないと大変なことになると思う。
 教育は学問だけではなく「道徳」を教えるのも国の行う義務なのでは?
 マアそうは言っても、現在の国のやり方は「姥捨て山制度」を発足させ、「年よりは早く死ね」と言わんばかりで人を愛するやり方ではないことも事実で、国そのものが「人を愛し、国を愛し」を放棄しているのだから何をかいわんやである。
 「戦争の放棄」は歓迎するが「人を愛し、国を愛する」を放棄してもらっては困るのである。
 

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